本田宗一郎のことば

私の見たフォルクスワーゲン

(1954.S29.3 明和報 本田宗一郎)

 

 

 これまで世界の数多くの自動車を見てきたし、また乗ってきたのであるが、近着のドイツ製自動車フォルクスワーゲンほど感服させられた車はなかった。一口に言うと、フォルクスワーゲンはまるで親切と几帳面の塊のような車であり、いきとどいた神経が使用者の立場になって払われ、製作されている。その値段、品質、性能、乗心地、まことに申し分ない。

 

 この際に完全で立派な自動車を大量生産することは、まさに至難の業とでも言うべきであろうが、しかもこれが日本と同様、敗戦の憂き目に遭って荒廃の中から立ち上がったドイツにおいて成し遂げられたものである。人呼んでそれを“奇蹟”と言う。しかし“奇蹟”などと称する神話的な不思議が、この二十世紀に存在するはずがない。他でもなくそれらはみんな、血のにじむがごとき努力のたまものであった。

 

 一見したところ、フォルクスワーゲンは平凡な小型乗用車に過ぎない。むしろそのスタイルなど洗練されているとは言い難く、必ずしも万人によい印象を与えているとは思わない。しかしそのなだらかな前部の曲線は、運転者により広い視界を与えて安全度を高め、また独自のボディはそれ自身が頑丈なシャーシーの構成要素であると同時に、室内調温装置の部分さえ兼ねている。これらはほんの一例であるが、どこまでも使用者の便宜を考え、そしてまた一つのものによって幾多の目的が解決されるような、入念極まる設計が施されて、一石二鳥どころか一石三鳥、四鳥の効果を挙げることに成功している。これは絶対に偶然から生まれたものでなく、あらゆる角度からの慎重な検討と、几帳面な努力、および勤勉から創造されてきたものであることを我われは知るべきであろう。

 

 私はいつも思うのであるが、単に絵画、彫刻の類にとどまらず、自動車などもその製作者の人格がよく表われるものである。当社にも七、八台の外国車があるから、またそのためにも購入してあるのだから、機会のあるごとによく見てみんなで比較検討してほしい。それらは各々の生産地の国民性を如実に反映しているものである。

 

 たとえば、

一、フランス車はいかにもフランス人らしい機智に富み、いろいろと教えられる点も多い。しかし部分部分は小気味よくまとまっているとしても、車全体としてはどことなく統一性を欠く。それはちょうど、フランス人一人ひとりは立派な自由主義の良識を持ち、国民水準も高いレベルにありながら、常に政治的不安定から脱し得ないその民族性に似ている。(シトロエン)

 

二、ドイツ車は技術的に言って地味であり、派手さは求むべくもない。しかし彼等の膨大で克明な基礎的研究の上に積み重ねた総合的努力がモノを言って、ほとんど完全無欠な車に仕立て上げる。その手腕、努力、几帳面たるやまったく敬服の他はない。(フォルクスワーゲン、NSU、BMW)

 

三、イギリス車はあくまでも堅実であり、常識的である。しかも伝統に輝くクラフトマンシップは、常に新技術と融合して独自な風格を作り上げている。そのスタイルは、クラシックな味わいの中に落着いた華麗さがみなぎっていて、けだし気品高い英国紳士を思わせよう。(ジャガー、MG、ヴエロセット)

 

四、アメリカ車は豊かな資源に恵まれた広大な国柄を代弁するのか、豪放な構造とその大衆性を誇っている。しかしドイツ車に見られるような、細部にまでいきわたった親切心は見い出せないだろう。(クライスラー、ビュイック、ジープスター)

 

 さて、今後我われはいかなる道を選び、またいかなる生産態度と気構えで、かの競争の激しい世界自動車工業界に臨むべきか? 各国の長所を取り入れ、さらに日本独特の感覚を盛り上げた車をつくることであるが、敗戦ドイツから立ち上がって世界市場に覇を唱えているフォルクスワーゲンのいき方は、我われにも希望と方向とを教えてはいないだろうか。

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