本田宗一郎のことば

技術と個性

(1952.S27.7 月報 本田宗一郎)

 

 

 マチスやピカソの描いた絵には目玉が片方だけの顔があったり、木の股に女の人の股がひっかかったような、私達の常識的な鑑賞眼では理解し難いものがあります。

 

 目玉が一つであったり、木の股に女の人の股がひっかかったような絵はありきたりの経験と、他から与えられた見方からすれば、たしかに奇怪であり理解し難いものであります。

 

 しかし、ここで注意しなければならない点は、経験といい、他より教えられた見方といい、いずれも既にあったもの、すなわち、過去のものであることであります。これは、人間の目玉は二つであると定めてかかる既成の経験的な、没個性的な見方を一歩も出ないものであります。

 

 今までの小学校の図画教育の成績採点の基準は、実物に似ているか否かにあったようです。たとえばリンゴを描いた場合、実物に似ているかどうか、実物に似ている度合が成績のよしあしを決定する基準となったようであります。もっとも、進歩した先生方はこのような指導はなさらないようでありますが、とにかく実物に似ているかどうかによって絵の価値を定める、素朴な写生主義をでない絵の評価が広く行なわれていることは否まれません。

 

 もし実物に似ていることに絵の価値があるとすれば、どのように巧みに描いても写真にはおよびません。最近は優れた色彩写真さえもできております。

 

 しかし、いかに写真が進歩しても絵画が尊ばれるゆえんは、絵に描いた人の独自な見方――個性が盛られているからであります。

 

 個性の眼で見、個性によって感じられたものが描かれているからであります。

 

 同じリンゴにしても、北国の寒い冬を凌いだ枝に実ったリンゴを想像して描いたもの、あるいは信濃の高原の、澄んだ大気の中に美しい娘さんたちによって摘まれたリンゴを思って描いたもの、あるいはまた、酸味をともなった甘味のあるさわやかな味感に心を惹かれて描いたもの等、描く人の感じ方――個性に染められて描かれていればこそ、絵画には価値があるのであります。

 

 技術にしても同様であります。個性の入らぬ技術は価値の低い乏しいものであります。従来の日本の技術の大部分はこのような模倣技術でありました。殊に戦時中は外国製品の真似で、外国のアイデアにより、外国の青写真によって製品を作っておりました。その最もはなはだしかったのは軍部であって、いかに優れたアイデアであっても、技術の分かりもしない担当者の判がないため、あたら埋もれてしまったのが、日々の模倣技術の実態でした。

 

 一つ目がおかしいと言うのは、過去の経験からは、ぶざまで、けったいで、見られぬと言うかも知れません。

 

 このように過去の経験にとらわれていたのでは、よい発明、創意工夫はできるものでありません。もちろん過去を無視せよというのではありません。過去は過去として正しく見、しかも過去にとらわれず、過去になじまぬ自由な見方、自由な感じ方をする人にのみ優れた発明工夫が生まれます。過去によって生まれた二次的の知恵を用いたものが発明、創意工夫であり、二次元三次元の世界であります。多くの人ができるとかできぬとか申しますが、できぬと断定できるのは神様だけであります。進歩を運命づけられた人間の辞典には、不可能という言葉はあり得ないと私は考えます。

 

 このように考えますとマチスの絵は片目でもよいのであります。

 

 先に小学校の図画教育においても、進歩した先生方は個性を認め、はぐくむ指導をしておられると申しましたが、書道の教育においても進歩した先生方は、単なるお手本の模写から抜けでて、個性をいかしたクラスの共同鑑賞、共同評価を行なっているようであります。本来「うまい」か「まずい」ではなく、「好き」か「嫌い」かと言うべきであります。

 

 以上述べましたように、私は技術にも個性がなければならぬと信ずるものでありますが、最初から個性がでるものではありません。マチスにしても模倣から出発し、模倣を抜けでて個性の高さに到達したのでありますから、年若い人や経験乏しい人は模倣から出発することは過程として止むを得ませんが、模倣は飽くまで手段であって目的ではありません。私は我が国の技術にもっと個性があってもよいと思います。否、もっと独自な強烈な個性を求め、要求するものであります。

 

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