本田宗一郎のことば

ざっくばらん人生

(1959.S34.5 社報)

 

 

耳学と経験の総合

 僕は本を読むのが嫌いだ。極端な言い方をすると、本というものには過去のものしか書かれていない。僕は、本を読むとそれにとらわれてしまって、何だか退歩するような気がして仕方がない。

 

 大体、僕の人生は、いわゆる見たり聞いたり試したりで、それを総合して、こうあるべきだということで進んできた。

 

 もし分からないことがあって、そのために本を読むんだったら、そのヒマに人に聞くことにしている。

 

 五百ページの本を読んでも、必要なのは一ページくらいだ。それを探しだすような非能率なことはしない。うちにも大学出はいくらもいるし、その道の専門家に課題をだして聞いたほうが早い。そして、それを自分の今までの経験とミックスして、これならイケルということでやっているだけで、世の中の人は、本田宗一郎はピンからキリまでやっていると思っているようだが、とんでもない。

 

 結局、僕の特徴は、ざっくばらんに聞くことができるということではないかと思う。つまり、学校にいっていないということをハッキリ看板にしているから、知らなくても不思議はない。だから、こだわらずに誰にでも聞ける。これがなまじっか学校にいっていると、こんなことも知らないんでは誰かに笑われると思うから、裸になって人に聞けない。そこで無理をする。人に聞けばすぐにつかめるものが、なかなかつかめない。こんな不経済なことはない。

 

気づくことが先決条件

 工場の能率にしても、これと同じことが言える。技術的にどうしても解決しなければならないということは案外少ない。第二義的なことが多い。いちばん大切なことは時間である。

 

 倍増産したければ、半分の早さで仕事をすればいいのだから、これは誰にでも分かる。割り算も代数もいらない。足し算と引き算さえあれば、誰でも能率を上げることができる。

 

 我われが行動する場合には、気づくことが先決条件である。

 

 技術があれば何でも解決できるわけではない。技術以前に気づくということが必要になる。日本にはいくらでも技術屋はいるが、なかなか解決できない。気づかないからだ。もし気づけば、ではこれを半分の時間でやるにはどうすればいいかということになる。

 

 そういう課題がでたときに技術屋がいる。気づくまではシロウトでもいい。そういういちばん初歩のところを、みんな置き忘れているのではないかという気がしてならない。

 

専門家の任務

 近頃、一流の経済雑誌なんかが、どのくらいの値段でどういうタイプの製品を作ったらいいかアンケートをとったらいいじゃないか、と麗々しく書いている。

 

 僕はこれを見てガッカリした。大衆にアンケートをとって聞くことは参考にはなる。たとえば、自分のまいた種がどの程度大衆にうけ入れられているか、または不満があるかといったものなら賛成だ。

 

 しかし、本来のものについて、何だかんだとアンケートをとるのはおかしい。

 

 なぜなら、物を作ることの専門家が、なぜシロウトの大衆に聞かなければならないのだろうか。それでは専門家とは言えない。どんなのがいいかを大衆に聞けば、これは古いことになってしまう。シロウトが知っていることなんだから、ニューデザインではなくなる。

 

 大衆の意表にでることが、発明、創意、つまりニューデザインだ。それを間違えて新しいものを作るときにアンケートをとるから、たいてい総花式なものになる。他のメーカーの後ばかり追うことになる。

 

 つまり職人になっちゃう。

 

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