本田宗一郎のことば

わが幼年時代

(1955.S30.10 葵弘報 本田宗一郎)

 

 

ガソリンの芳香

 明治三十九年、浜松市在の鍛冶屋の倅に生まれた私は、鉄を打つ槌の音を子守唄と聞いて育った。今日になっても騒音の中に生きている次第だが、私にはけたたましい音が身についた、ぴったりしたものなのだろう。

 

 物ごころつくかつかぬうちに、くず鉄を折り曲げ、わけの分からぬものをこしらえ、私はいとも満足していた。好きな悪戯には時間は気にならず、着物の袖は垂れ落ちる青っぱなをこするので、合成樹脂でぬり固めたように真黒になった。「冬などカチンカチンになるので、おかしいやらで、叱れなかったね」と、母はよくその当時を思い出して苦笑する。

 

 三つ子の魂百まで、というが、子供の時代の思い出などをひょんなことで人に話したりすると、本気でもあるまいが、その人はたいてい笑ってこう言うのである。

 

「今でも大して変わらないのじゃないですか」

 

 なるほどと、私も仕方なしに苦笑する。

 

 金魚が赤いのばかりじゃ面白くないと、職員室の金魚鉢をひっかき回し、青、黄色のエナメルを塗って放してやり、校長に大目玉を食った話。

 

 磁石の磁力をそっと盗んでおいて、理科の時間に先生が失敗するのを見て大喜び、授業が終わり先生が去ってから、自らうまくやってのけて、拍手喝采、得意満面の私、等等、思い出してみれば、生まれついて碌なことをしていない。

 

 生家の隣に石家があった。そこの親父の作っている地蔵の鼻恰好がどうしても気に食わなかった。おれならこう彫る、あそこを削る、と独りで想像図を完成していたが、どうもそれだけでは我慢がならぬ。

 

 昼食休みの親父のいないすきに、私は素早くのみと金槌を持ち、コチンコチンと当ててみたが、石の硬さは思うような形に容易にならぬ。いじり回している間に、鼻が丸ごとぽろりと欠け落ちてしまった。これには私も仰天して逃げだしたが、衆目の一致するところ、犯人は私だ、と逃げも誤魔化しもならず、目の飛びでる程怒鳴り飛ばされたこともあった。

 

 まずは、こと程左様に、生まれついて賞められることをしたことのない私だったが、完全に魅入られ、参ってしまったものに自動車がある。小学校四年頃、村に初めて動く車体が、青い煙を尻からポッポッと吹きながら、通ったのである。

 

 私はそのガソリンの匂いをかいだとき、気が遠くなるような気がした。普通の人のように、気持ちが悪くなってではない。胸がすうっとしてである。そのときのたまらない香りは幼い私の鼻を捉え、私はその日からまったく自動車の亡者みたいに、走るその後を追っかけまわした。金魚のふんだと笑われながら、自転車がすり切れる程、ペダルを踏み、自動車の後を追って、ガソリンの芳香をかぎ、悦に入っていた。

 

 道に油がこぼれていると、それに鼻をくっつけ、匂いを存分にかぎ、時間の経つのも忘れた。そしてその日のご飯の、何と美味しかったことか。

 

 その頃から抱いた私の最大の望みは、自分の手で自動車をいじり、運転し、そして思い切り素っ飛ばしてみたい、ということだった。その念願の達成できるのは、いつの日か?

 

 しかし、必ず来ると私は信じてやまなかったのである。

 

作業衣ワンダフル

 十六歳、小学校高等科をおえるとすぐ、私は東京に奉公に出た。

 

  本郷のアート商会という自動車修理工場だった。好きなことができるということに、無上の光栄を覚え、家を離れ父母の膝下と別れることなんか、全然悲しく思わなかった。

 

 それに学校が嫌いである。学問に見向きもしなかったから、上級学校へいく気などさらにない。せめてもましな成績だったのは、工作、図画、唱歌ぐらいだったから、これでは仮にいくら上級学校を、と欲ばっても、土台無理な相談だ。

 

 行李一つで都会にでた私は、自動車をいじれるというだけで、胸をふくらましていた。

油に塗れた作業衣を着た自分の姿を、ビルの谷間から仰がれる狭い空に描き、大いに満悦に浸っていたのだから、誠にいじらしい。

 

 ところが現実は、これはまたみじめだった。「子守っ子」、これが颯爽と故郷を後にでて来た風雲児(?)の仕事なのである。でんでん太鼓を鳴らし、ネンネンコロリヨでは、哀れひとしおだ。作業衣にあらぬ、かい巻き姿の私は、 「お前の背中にはいつも世界地図が書いてあるじゃないか」

 

「どうも臭えな。ちょっと離れてくれよ」と、笑われ馬鹿にされた。

 

 こと志と違い、私は失望もし、奉公がたまらなく嫌になった。

もう止めだと投げだし、何度行李をまとめにかかったことか、数えきれぬ。

『おれは自動車のお守りなら寝なくったってやってやる。

赤ん坊はギャーギャー泣くばかりじゃねえか』

 

 鼻紙に書いて、誰かの眼にとまるようにと放っておくがその甲斐もない。

 

 しかし、そのときの私を引きとめていたものは、……父母の困惑し、怒った顔、それもあった。そして自動車の機械の組立て構造を曲がりなりにも毎日眺めていられる、その喜びの方が大きかった。

 

 苦痛な日々を過ごして半か年、私が自らの手で自動車をいじれる日がやってきた。

ある大雪の降った日であった。欣喜した。

「おい、小僧。今日は滅法忙しいや、手伝え。そこの作業衣を着て……」  待ちに待った晴れ衣を着る日である。「オホッ!」と飛び上がり、雀躍しながら腕を通し、さていかならんと鏡の前に立つ。なかなかよい男ぶりである。

が、その実、折角の晴れ衣も、兄弟子のお下がりのダブダブで、すでに油まみれではあったが。……ほれぼれと見惚れる私に、 「何をしてやがんでえ。早くきて手伝え」兄弟子達は苦笑しながら怒鳴る。

 

 作業衣と言えば面白い話がある。当時の作業衣は、現在のようにきちんとしたものでなく、外国の輸入品の古物をもっぱら使用し、それはちょうど映画のフランスの将校服とよく似ていた。それで期せずして滑稽な場面が、よく繰り広げられる。

 

 まだ着用したばかりの頃だったと記憶するが、神田の方へ使いにやられた私は、須田町の角で信号を間違え、巡査にいやという程叱られたことがあった。

 

 ところがそこへ、あまり私の帰りが遅いものだから、あの田舎者め、道でも間違ってうろうろしているのではないか、と兄弟子が探しにきたのである。そしてそのときのことが、後々までの語り草となった。

 

「金モールのついた外国の軍人が、お巡りさんを叱ってるのかな、と思ってヨ、近づいてみたら本田じゃねえか、面食らったね。大体お前もいけねえよ。怒られてるのに、胸を張ってる奴があるかい」と。

 

 別に胸を張ってたわけではなかった。作業衣のつくりが、そんなふうにできていたまでである。日本の警官服には、金モールなどついていないから、間違えるのもこれまたあたりまえだった。

 

最初の障壁「学問」

 こうして六年、私は修理工場での奉公を勤めあげた。一通りの構造、修繕を呑み込んだし、その間に自動車の運転も習得した。自由に自動車を駆使し、大都会の石畳を走り回る、私の最初の希望はまずまず達成されたのである。

 

 二十二歳の春、私は故郷に戻り、浜松市でささやかな修理工場を営んだ。工場などと義理にも言えるものでなく、工員も私一人という貧弱極まるものだったが、私の腕にだけは自信があった。

 

 当時浜松に、他には二、三軒ぐらいしか修理工場がなかったが、考えてみれば修理工場の伸長などタカが知れている。いくら上手だといえ、東京からわざわざ修理にくるわけでなし、いわんや自動車の国アメリカから依頼がくるなど、考えることもできぬ。

 

 そこで私の考えたことは、こうだった。

『修理は所詮修理に過ぎず、経験さえ積めば万事O・Kだ。だがこれに一生を費やすのは、実にたわいがない。人間やはり生きている限り、自分の手で何かこしらえる、工夫し考案し、そして役立つものを作るべきだろう。他人様の作ったものを修繕するという、尻馬に乗った商売なんか、犬に食われてしまえ。自らの手で、頭で何か作ってやろう。一歩前進してみようじゃないか』

 

 せっかちで向こう見ずなのが、私の性分である。こう決心したらそれまでだ。工員五十名ほどいるところまで伸び切った修理工場をあっさり畳むと、私はすぐピストン・リングの製造工場に切り換えたのである。

 

 ピストン・リングとは、分かりやすく説明し難いが、発火室に潤滑油が入らぬようにとめる輪で、エンジンのかなめとも言える部分である。その頃すでに理研などでは、だいぶ製造していたが、まだ日本ではそれ程研究が進歩しておらず、民間で製造するものはほとんどなかった。まず最初から、私は難しい仕事を選んでみたのだが、難しいの難しくないの話ではない。私の考えのいかに甘いか、私は嫌という程思い知らされたのである。

 

 それより前、二十五歳のときだったか、私は自動車のホイル(タイヤをとりつける車輪の中心部)の特許をとった。それまでは木のスポークを使用していたが、我が国は乾燥の度合がはなはだしく、その精巧度は狂い、車輪の力が損なわれがちであった。それを鉄を使用することに変えたのである。その結果非常に好評で、印度あたりへも輸出し、大変な金儲けになった。

 

 従って、私は資金的にはすでに恵まれていたのだが、ピストン・リングの製造を開始するや、瞬時にしてその大部分をすってしまった。失敗につぐ失敗、それは結局私に基礎がないために他ならない。このとき程、私は自分がその学校時代、学問を放棄して遊びに耽っていたことを悔いたことはない。

 

 学問は学問、商売は商売だ、と別物に見なして説く人もあろう。確かにそうとも言えよう。しかし学問が根底にない商売は投機に過ぎず、真の商売をすることの味は分からない、と言えるのではないだろうか。私ごときが厚顔な言い分だが、骨身にしみた自らの基礎の薄弱さを悔いる経験がそう悟らせたのだ。

 

 三十歳の手習いだった。今さら何をと笑われながら、浜松高等工業学校の安達校長に依頼し、三年間の聴講生を許可して貰ったのである。生活を顧みれば、この時代が最も苦しい時であったろうか。

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