藤澤武夫のことば

研究所のあり方について

(1960.S35.6 社報 藤澤武夫)


それは九九%まで「よい原図」であること

 

企業の生き方を、大きく二つに分けて考えてみたい。


その代表的なものの一つに、受注産業がある。戦時中の日本産業のあり方を思い起こすと、はっきりしよう。軍から与えられた青写真どおりの品物を作ることによって生息していた産業だということが。この産業では、自分のところで研究した図面で品物を作るのではない。常に製品の原図は外部から与えられることになる。


この場合、企業生命の源泉はどこにあるかというと、これは当然、受注先から与えられた原図にあるので、結局、自分のところで責任の持てないものに、自分の生命を脅かされているという、言いかえれば、他力本願的な企業の生き方といえよう。



それに対して、もう一つの生き方は、当然自分のところで研究した図面をもとにして生産を行なっていく企業とでも言おうか。少なくとも、耐久消費財を扱うかぎり、その製品はあくまで自分のところで研究した成果であるべきで、その点、この場合の企業生命の源泉は、自分のところでつくる原図にあると言ってよいだろう。


前者に比べて、企業の盛衰について、その基本からすべて自分で責任を持たなければならぬ、徹底した自力本願の生き方である。


他力本願と自力本願、簡単なことかもしれないが、ここのところの基本的な違いを、しっかりと頭に入れておかないと、大きな方向違いを起こすことになる。


企業の行き方を他力本願か自力本願かに分ける分岐点、しかもそれが栄枯盛衰の原動力として、常に根本にドッカと横たわっているもの、それが「原図」にあるのだということ、これを決して忘れてはならない。


しかも、私たちはその後者に属しているということを--。


時代とともに生きていく産業であること

 

しかし、問題はそれだけではない。


受注産業は致し方ないとしても、耐久消費財を扱っている産業自体が、やはり多かれ少なかれ、前者のような生き方をしてはいないだろうか。


それが、この二者の基本的な違いを混同することから起きていることはないだろうか。


前者で成長してきた日本産業全体としての、何か惰性のようなものがありはしないかということである。


少なくとも、私達の企業は、時代とともに生きていく産業であることを忘れてはならない。


常に、時代とともに歩く生産方式を打ち立て、それにより良品を安く作ることが私達の使命であるとしたら、結局そのような品物が何であるかは、私たちの手で積極的な堀りだしていかなければならないこと、これは当然である。


これについて各企業がどのように解決しているだろうか。


たとえば、市場調査をしていちばんよく売れているものを、自分のところでも追っかけて作る。あるいは、外国の特許を買ってそれを作る--これらのことは何を意味するものだろうか。


外国の特許を買うということに例を取ってみても、これは外国でそれが売れているという事実、それが周知のことであるという事実、それによって買っているということで、さきの市場調査うんぬんというのと、五十歩百歩ということになる。


皮肉なことには、これは安易であり、しかもある場合には安全な道であるかもしれない。


いくら特許料を払って日本に持ってくれば、どのぐらいペイできるか、これなら重役会にも説明しやすいし、従業員にも容易に納得してもらえる。


しかも、一方では、高い特許料によって儲かった外国はどうしているかというと、それで自分の所の研究者に高い給料を払って、ますます研究を進めていく--このことをどう考えたらよいのか……。


時代とともに歩く企業、ということは、常に新しい時代を開発していく企業ということで、決して時代を追いかける企業という意味ではない。市場調査に頼ること自体が、時代の後塵を拝することになる。


受注産業ならずとも、それに似た生き方をしている企業の多いこと、そしていきなり新しい時代に直面して当惑している企業の何と多いことか。これらのことも、結局、企業発展の原動力の九九パーセントまでが、「原図」にあり、その生命線を自分でしっかりと確保していこうという態度を忘れていることにならないだろうか。


研究所の役割

 

こんど、トヨタがフォードと提携してファルコンをやるという話がでている。


このうわさを本当のことと仮定して考えてみると、これは何を意味するかというと、トヨタが研究所をフォードに求めたということではないだろうか。


トヨタがもしフォードと技術提携あるいは資本提携をやったとした場合に、日本にどういう功績を残すかというと、まず第一に生産技術が飛躍的にあがるだろうということ、今の段階で外国の生産技術を日本の中に組み入れれば、素晴らしいものができる。この意味では非常にいい功績を残すに違いない。


が、同時に、他の意味で大切な点があることを忘れてはいけない。それは日本における研究の限界を指していて、非常に暗示的である。


だいたい、日本の企業の中でも、ほうぼうに研究所があるが、その研究所自体で、いろいろ研究して、ロイヤリティを買わないですむ、といった企業はなかなか見当たらない。


言いかえると、研究所か調査室か分からないような状態で、早く世界中のパテントを買い集めた方が勝ちで、それが研究所の役割のようだ…とまあそう言ってしまうと極端になってしまうが。


組織体としての考え方

 

しかし、これらのことは研究所が独立すれば、それで解決されるという簡単な問題ではない。ここには、組織体としての考え方についての根本的な問題がある。研究所と製作所との根本的な違いと言ってもよい。


片方では、三角型の組織体で、ここでは流れ作業が行なわれ、またそのようなピラミッド型の流れ組織でないと、企業はやっていけない。


ところが、それと同じ考え方で、いくら完全な研究所組織を作ってみても、それで立派な研究所ができるかというと、なかなかそうはいかない。


たとえば、本田技研が今まで、何で伸びてきたかというと、社長の考えた図面がよかった。その図面が三角型の組織の中から生まれたものかといと、そうではなくて、はっきり天才の為せる業(わざ)だといってよい。


前にも述べたように、これからの生産、それも耐久消費財を扱っているかぎりにおいて、企業の発展の原動力の九九パーセントまでは、原図にあると思う。


どんなに、生産技術が優れ、どんなに販売がうまくても、原図が悪ければ、これで勝負が決まってしまう。


原図をよくするために、よいアイデアをだす。


現在の現実の姿から、天才的な社長のアイデアを除いたら一体何が残るだろうか。


現在の能力とホンダの未来

 

ここで、人間の能力という根本的な問題に直面するわけで、一人の天才能力にかわる集団能力をいかに組み合わせ、それを全体として向上させていく仕組みをどのようにしたら作れるか。この姿ができあがれば、本田技研は安泰である。


今までの議論を聞いていると、現在、能力があるという前提でいろいろ議論されているようだが、私は現在の能力程度ならば、絶対に本田技研の未来は、よその企業と同じようになるだろうと思う。


どこの企業でも、最初はやはり、本田技研のように一人の素晴らしいアイデアを持った人が、大勢の人の知恵に助けられて盛り上がってきたものだが、それがいつのまにか消えてしまって、月並みの企業になっていく。そうなることがこわい。


 それを何とかよける方法がないものか。


現在の時点からいけば、トヨタは本田技研に比べて高能率な企業だ。本田技研はあまり高能率ではない。いつかは高能率になる力を持ってはいるが、現在のところでは、いろいろな点でトヨタには、はるかにかなわない。しかも、その日本の代表的な企業であるといわれているところが、もし研究所を外国に求めなければならないとしたら……。


到底日本において天才能力を育てる研究所という組織は生まれないものだろうか。


天才にかわる能力の育成

 

そこで、もう一度現在の技研の姿にもどるが、私が前々から強調しているように、組織というものが、縦の線だけで、どうも横にいく線が弱い。これは、特に技研の場合には要求される点ではないか。


実際問題として、T・Tレースでは、ずいぶん金も使い、レーサーについては、素晴らしい研究ができているのに、それがたとえばドリームや農機具の技術にいかされていないということ、その研究成果が横すべりして、他部門につながっていないということ、これは非常にムダではないだろうか。これがいまの研究部門の姿で、縦のラインばかり強くて横の連携が弱いということにほかならない。


現在は社長という天才がいて、全体のバランスをはかってくれるからよいものの、天才というものは、そう求められるものではない。それならば天才とまではいかなくとも、だれでも、その人その人のもっとも得意とするところのもの、専門があるはずだから、おのおのがその一つのものを突き進んで研究していく、その得意とするところのものに、その人の能力が最大限に発揮され、その成果が横につながり、ガッチリとスクラムを組んで、全体としての素晴らしい研究成果をあげる。ある人は、他のことは全然考えないで、ロックアームならロックアーム、クランクシャフトならクランクシャフトに、その一生をかける。そのかわり、世界中のロックアームについて、高い見識を持ち、ロックアームのことなら、あの人にかかってはかなわないということになる。それぞれがそういうことになれば、これなら天才がいなくてもやっていけるはずで、それを皆が助け合って実現できるような仕組みをつくる、これこそ研究所が独立する場合に要求される最大の要素である。


研究所における自信と誇り

 

しかし、それを実現するためには、もう一つ考えなければならない問題がある。それは人間の精神的なものであるかもしれない。


今まで述べてきたように、研究所では一人一人の能力が最大限に発揮されて、研究に専念できるということが大切なことであって、これは従来の三角型の組織や職制では、ちょっと期待できないのではないか、言い換えれば、研究所では、課長とか係長とかといった名前が大事なのではなく、一人一人が研究者であり、その研究成果が重要なのであるということ、その意味でも課長や係長をどんどん作るというわけにはいかない。


製作所にいれば、当然係長であり、課長に近づこうという人も、研究所に入れば一研究員であるかもわからない。これで、おまえは研究所にいるんだから、場所が悪いんだ、といった見方をされると、これは全然ダメになってしまう。研究所以外の人が、研究所に対する思いやりがないと、いい研究ができるはずがない。研究所にいる人たちの誇りと自信、そしてその生活について守ってあげることが、結局、製作所なり営業所なり、他の人達の生活を守ることになる。特に管理系統をどうするかということは、非常に重要な問題で、この点の考え方を、みんなで新しく変えていくように努力してほしい。これが大切なキーポイントで、そうすることによって、他の人が部長になっても、自分はその名前がなくとも、あそこの研究員なら、たいしたものだというように、自信と誇りを持てるようになってもらいたい。



研究所の独立ということ

 

研究所の独立ということについて、資本金をどうするとか、運営資金の問題等は、これは私たちが考えることで、すでに腹案もあるが、重要なことはあくまで、研究成果のあがる新しい組織をどのようにして作るか、ということであり、それが考えられて、そのためには独立した方がよいのだという結論が、みんなの納得いく線でだされるならば、非常に結構だと考えている。