藤澤武夫のことば

強く逞しく考えよう

(1963.S38.1 社報 藤澤武夫)


経営と仕事

 

少しこじつけと思われるかも知れないが、経営と仕事とは違う。毎日、経営者が出勤して判を押したり、書類を見たりするのは、それは仕事と名付けたい。



 

企業には社是があり、経営の基本方針が決定されている。私は、経営とは、それに沿っているか、どうかを見守っていることだと思っている。


事故が発生したときに、迅速に処置したことをよくやった、とほめたのは、小企業の時代であって、大量生産になってからは、その被害が大きいことは、私達はいやというほど知っているはずである。大企業自体が事故発生(経営不振)してから処置をすることになると、その振り回しの大変なことは、昭和二十九年当時のこの会社とは比べものにならない。


ここでいちばん問題になることは、この会社の社員の動揺だけでなく、販売店や株主の混乱が、人びとの心をまどわし、それが抵抗となって、それ自体の回復する時間を、さらに遅延させるかも知れないということだ。


そのときの処理が上手といわれても、未然にそれを察知して経営されているものとの差は、これは、想像がつくはずである。


企業がスムーズに展開されて障害がなく、これからも同じように阻害さるべき要素を、未然に探究しておくことが、私は、経営だと思っている。


経営を阻害するのではないか、と考え始めてから、それを企業の表にあらわすまでには、半年以上もかかるときがある。実際のところ、その期間は苦しむ。


なぜなら、「悪い」という現象が、はっきりとでていないだけに、取り上げてよいものか、どうか。はっきりと理論的に割り切れるときは、これは楽なのだが。実際、小企業の時には、経営と仕事が同一だといってもよいから、六、七年前は、私も結構楽しみながら仕事兼経営らしいものをやっていたのだが。


経営者としての喜び

 

大企業になっては、経営というものは厳しいものであり、個人の趣味、興味というものとは関連がなくなってきている。


端的にいって、私には大きすぎるように思われる。将来のことを考えるとき、経営を会社全体の姿でやっていかれるようにしたいと思っている。


だから、今までもそうであったけれど、私は幹部の研修会には必ず出席して『ものの見方、考えの起点、具体的発展』という点を強調している。そのような基盤ができ上がれば、経営は次の時代を背負う人にとって、至極やりやすくなると確信しているからだ。最近はその研修会も以前から比べれば、心が浮き浮きするような素晴らしい論理の展開を見せてもらえるときが多くなった。"速度をはやめてくれ"と念ずるばかりだ。


しかし、私は会社の皆さんに話をする壇の上に立ったときに、温かく見守ってくれるのを感じ、経営者の一人としての喜びを味わせてもらっている。


それなら、経営というものが私の人生にとって、やはり最高のものだということになる。