藤澤武夫のことば

当社の社会的評価

(1959.S34.2 社報 藤澤武夫)


-日経の有望株について、本社の新年の仕事始めのとき話されたように、うちは社会的には、まだ一流企業として認められていないが、これではもの足りないということでしたが。


経営を社会から見た場合に、百メートル競走と見ているのか、それともマラソン的に見ているのかということだが、我われとしては決して百メートル競走でないということで進めている。しかし期間の短い間にその駆け足の度合が速かったからキワモノ的な会社である、というふうに世間が評価しているとすれば、我われ自体の中にそのように評価されているものがあるのかも知れない。


で、いちばん考えなければならないのは、本田宗一郎という人間がいないで、会社が今だけの評価をうけるようでなければならないということなんだ。


本田宗一郎がいなくても当社の長期的価値というものは、みんなで作っていかなくちゃならないのではないか。


そのような意味から考えると、案外社会もよく分かっているということになるかも知れない。


我われが日常会社で仕事をしていて、本田宗一郎をプラスされたものと、プラスされていないものとミックスして、あるときは自分に都合よく解釈し、あるときは自分に公平な判断をするということは、やはり考えなければならないだろう。


だから本田宗一郎というものを少しずつはぎ取っちゃって、五年、十年たったら本田宗一郎が零であってもいいんだというだけ、みんなが成長しないかぎり、この本田技研の成長性は長い目で見なければならないのかも知れないな。


では果たして現実はどうか、というと一応そういう方向に入っているのは確かだと思うが。


人間の構成でいちばん大切なのは、人間の持ち味をうまくいかしていくことなんだが、必ずしも東大出の者を集めたから優秀な成果が上がるとは言えないのであって、やはり人間の抵抗というか、自己保存の本能というものがお互いにさまたげになって喧嘩し合ってしまう。


レベルを上げることよりも自己保存の本能で喧嘩してしまって、そのエネルギーを消耗するほうが多くなってしまう。


岸さん(当時、首相)が大臣を決めるのに、あれは東大の何年卒だから…というようなことのようだし、中々抜け難いものらしいが、大体支配階級に入って、俺は人を使うんだということを宿命的に思ってしまって、そこに人間的な魅力がなくって、ただ観念論ばかりが先行してしまう。そして支配階級というか、管理層同士が意味もないようなことで喧嘩することが、企業を大きくしないところのものになっているんじゃないかな。


そういうことがなければ本田宗一郎というのは幾人でもできると思うんだが……。これが現実にできないというのは、みんなができさせないと思うからなんで、お互いの心の中での戦争が邪魔しているんだと思う。