藤澤武夫のことば

松明(たいまつ)は自分の手で

(1967.S42.12 講演録 藤澤武夫)


ホンダは、松明(たいまつ)を自分の手でかかげていく企業である。日本の自動車企業には前をいくものの明かり、その明るいところにくっついてゆくいきかたをするものが多い。たとえ、小さな松明であろうと、自分で作って自分たちで持って、みんなの方角と違ったところが何ヵ所かありながら進んでいく、これがホンダである。


その松明は、ここにひとつの扉を見つけて広い世界にでた。


大きな松明を持ったトヨタなり日産なりがある。その松明が照らすところのものは、先頭の人にとってはいいけれど、後続の人にとってよいか悪いか、うしろにいては分からない。いつ火が消されるのか。いつ目の前で扉がしまるかについて判断ができない。


そのたとえとして輸出のお話をしたい。ホンダは、今年間百六十万台の二輪車を生産しその五〇パーセントを輸出している。むろん、これは生産、販売、輸出とも世界で群を抜いた数字で、二番とはかけ離れた実績である。これは国家的見地からも非常な貢献である。このほどイギリスがポンドレートの切り下げを行なったが、なぜそうしなければならなかったかというと、やはり生産性の低下に加えて輸出と国内消費のバランスがくずれてきて苦境に立たされたためである。これはイギリスの歴史にとって取り返しのつかないことになった。日本も、ここで輸出について本気でものを考えていかないと、円とドルの建て値が変わってくるような場合、経済や文化まで多くのものを失わねばならなくなる。そんな意味からも、ホンダが八十万台の二輪車を輸出しているということは、日本の企業としてすばらしい意味を持っているのだと誇りに思うわけである。


では、なぜこんなに輸出をすることができるのかというと、これはやはりホンダが自分の松明をかかげてきたからにほかならない。かつて、代理店の皆様の方で品物が間に合わないときにもかかわらず、輸出の方へどんどん回してきた時期があった。当時、皆さんからはおれの方に回せ、品物がいくらあっても足りない状況だからどんどんよこしてくれと言われたが、そういうわけにはいかなかった。


国内でお叱りを受けても輸出に回さなければならなかった。今だから話せるわけだが、その頃は国内より外国に出す方がもうける率はうすかった。当時は外国にでる台数も少なく、一台当りの経費もたっぷりかかっていた。しかし、その苦しい時期をひと押しして通りすぎなければならぬというわけで、私たちは国内のもうけを見送って輸出をした。輸出にも呼吸というものがある。今日よい品物ができたから今日すぐ売れていくものではない。年月と、布石が必要である。


他のメーカーが、国内でラクにもうけているときに我われは輸出で汗を流し、世界各地の百★国以上に道をつけた。これは決してなまやさしいことじゃない。苦難の道だった。しかし、この努力が報われて日本の二輪車、つまりホンダのオートバイが世界へでていって認識され、かけがえのない信頼をかちとった。三年ほどたちますと、その信頼は確固としたものになる。新規のバイヤーが日本にきてもホンダの製品を取れないから、ホンダの他にないかということになって二番目からのメーカーは、それはもう楽々とそれこそハナうたまじりで輸出ができた。